2020年1月2・3日の箱根駅伝で、ある快挙を成し遂げた選手がいた。
箱根100年の歴史でも稀有な医学部在学のランナーが走った。川瀬宙夢さんは、陸上競技中距離走の選手であり、筑波大学を26年ぶりの箱根駅伝出場に導いたチームの一員。将来は整形外科医を目指す、文武両道だ。
陸上競技と学業それぞれの面から歩んできた道を紐解いてみよう。
2020年正月の箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)で復路9区を走った川瀬宙夢さんは、4月に筑波大学医学群6年生に進級し、実習に励んでいる。
愛知県のほぼ中央に位置する刈谷市に6人家族の長男として生まれ、幼いころから足が速かった。川瀬家のお父さんは、負けず嫌いの長男に勉強や進路について意見することはなかったが、公園でかけっこするときも子どもだからと手を抜かない人だった。
川瀬さんは小学校ではサッカー部だったが中学校では陸上部に入部。3年生のときは1500m走で愛知県大会に出場した。だがこのときの川瀬さんにとって最大の関心事は愛知県立刈谷高等学校に合格すること。文武両道で知られる刈谷高校に入学すると迷わず陸上部に入り、自己ベストの更新を目指して練習に励んだ。ライバルにも恵まれ、先輩や同期生と切磋琢磨しながら、陸上に情熱を傾ける充実した日々が始まった。
種目は800m走と1500m走を選択。2年生の4月、西三河地区大会に参加した。その会場で目にしたのは、2種目に加えて3000m障害走にも自分の名前が載っているプログラムだった。確かに中学時代は3000m走でも記録を出していたが、障害走は未経験。結局、3種目に出場して1500mと3000m障害で県大会出場が叶う。
3000m障害はハードルに似たバーを28回、水濠(水たまり)を7回越えるのがルール。「スタミナが求められる走力だけでなく、ハードルや水濠を越える瞬発力やスピードも必要。試合運びが難しいところが魅力です」と川瀬さんは言う。
身体能力も技術も高まった高校3年になると、3000m障害で東海大会まで進んで3位に入り、インターハイ(全国高等学校総合体育大会)への出場を決めた。しかし、そのインターハイで川瀬さんは思いもよらないアクシデントに見舞われる。予選は余裕で通過できる自己タイムを持っていた川瀬さんだったが、ハードルに膝を強打し、次のハードルの先にある水濠でコースアウト。まさかの失格となってしまう。「高校3年間の締めくくりがこんな形で終わるとは……」涙があふれた。「このままでは終われない。この借りは日本インカレ(日本学生陸上競技対校選手権大会)で絶対に返す」と心に誓った。
中学時代の川瀬さんは、音楽と美術を除いていずれの科目でも高得点を取る優等生だった。「本音を言うと、絵を描くのも自分では苦手とは思っていなかったのですが」と笑う。漢字、英語、数学などの検定を受けるのが好きだったというからかなり余力があったはずだ。
将来を考えるようになったのは高校生になってから。スポーツ選手の常で、川瀬さんもけがや筋肉疲労を経験している。そのたびに整形外科医師のお世話になるのだが、あるとき、回復が遅いので鍼治療を受けたところ効果があった。「なぜ鍼が効いたのだろうと調べてみたりして、このころから自分の体や人体の仕組みに関心が向かいました。医師としてスポーツ関係の仕事に就きたいと思うようになりました。医師免許があれば鍼治療などもカバーできるし、医学部へ進学しようと決めました」。
心は固まったが、陸上競技に打ち込んでいたため、難関突破は難しかった。1年間浪人して受験勉強に専念する。陸上競技からすっかり離れた分、考える時間ができた。「陸上でタイムを縮めるのも、勉強で成績を伸ばすのも、行うべきことを考えて決めていく構造は同じだと気付いたのもこの時期です」。
タイムを縮めようとすると歩幅が狭くなる。歩幅を広くしようとすると上半身に力みが出る。力みが出るのは肩甲骨の筋肉が足りないから。では筋肉を付けるために何をしようか。タイムを縮めるという目的から逆算して、課題を設定し、解決する手段を選ぶ。医学部進学というゴールに向けて、受験勉強の課題を一つ一つ解いて進み、1年後、筑波大学医学群に入学した。
高校3年生のインターハイで味わった無念を、川瀬さんは忘れていなかった。大学に入ると筑波大学陸上競技部長距離パートに入部する。目標は「3000m障害でインカレ優勝」。そのために長距離からアプローチしようと考えたのだ。筑波大学は前身である東京高等師範学校として、箱根駅伝第一回大会で優勝を飾った伝統校だが、長い間、予選会で敗退していた。
川瀬さんは2年生から選手登録をして予選会に出場してきた。箱根駅伝では、前年の上位校10校のほかに予選会の上位10校が出場権を得る。出場選手は大学の学部生として4回まで登録できる。川瀬さんにとって2020年は最後のチャンスであり、2020年の出場は、筑波大学にとって実に26年ぶりの箱根路だった。
1月2日の往路5区の筑波大学は21チーム中20位。9区を任された川瀬さんが、8区のランナーからタスキを渡された時点で繰り上げスタート(トップとの差が20分以上離れるとタスキを待たずにスタートする)まで57秒しか残っていなかった。「自分が一矢報いる」と誓った川瀬さんは、最初から飛ばした。
10㎞地点の給水係は同じく5年生として部に残っている同期。12 ㎞の辺りでは沿道に筑波大の仲間が待ち構えていた。その中にも同期生がいた。「バチっと目が合ったんです。本当に珍しい経験でした。口の動きがはっきりと見えて、『頑張れ!』と言っていた。一瞬、時が止まりましたね」。熱く込み上げるものがあった。15㎞地点、今度は博士課程に在学中の先輩からの給水。かつてともに予選会で走り、悔し涙を流した仲間たちだ。とにかく苦しいレース展開だったが、「自分は一人でなく、同期や先輩に支えられて走っていました」。
しかし、現実は厳しい。21・9㎞の激走もむなしく、10区のスタート地点に着いたときは繰り上げスタートをした後だった。タスキは途切れた。
川瀬さんは「箱根駅伝の舞台に立てて光栄、でも悔しい」と振り返る。やはり根っからの負けず嫌いだ。実は、4年生の秋から病院実習が始まって忙しくなり、練習時間は朝5時半からの1時間と夕刻からの2時間という日が続いた。そんな中でも、タイムを上げてきた。
6年生になった川瀬さんは、箱根駅伝にはエントリーできないが、3000m障害の選手生活は続いている。箱根駅伝の半年前、2019年度インカレに初出場して4位の成績を残している。3000m障害の日本人学生歴代トップのタイムは、後にマラソンでオリンピックにも出場した新宅雅也選手の8分25秒8。川瀬選手の自己ベストは8分52秒70。記録がいかにハイレベルかがわかる。
「今年はインカレ優勝と、その先の日本選手権への出場を果たしたい」と川瀬さんの意気は高い。そして、競技者として走るのは最後と決めている。
冊子「スクールダイヤモンド2020年春号」より