【特別インタビュー】

やり切ったと言えるまで、
あきらめずに続けること松本英子(歌手)

 歌手・松本英子。40 万枚の大ヒットとなった福山雅治プロデュース曲『Squall』で知られる彼女は、透明感がありながら芯の通った歌声で、デビュー23 年を迎えた昨年も5 曲の新譜をリリースするなど、積極的な歌手活動を行っている。また一方で、2006 年に結婚、2008 年に男児を出産、今年高校生となった一児の母でもある。
 学生時代、ソフトボールで全国大会に出場するなど、音楽とは別にスポーツでも活躍していた彼女に、自身が子どもの頃に考えていたこと、記憶に残る言葉、そして母となった今伝えたいことなどを語ってもらった。

成果につながった「負けず嫌い」と「母の言葉」

 生まれたのは秋田県秋田市で、両親のもとで一人っ子として育ちました。実家が自営業を営んでいたため、従業員の方をはじめ大人の出入りが多く、その影響からか人見知りも物怖じもせずに誰とでも仲良くなれる子どもだったと思います。子ども同士で遊ぶときも、みんなをまとめて「さあ行こう!」というタイプでした。

 秋田市内の中心部ではありましたが、当時は田んぼや畑も近所にありました。自然に囲まれた環境のなかで、用水路で虫をとったりして遊んでいましたね。

 習い事は、ピアノとバドミントンと英会話をしていました。両親がアマチュアでバンドをしていたこともあって、小さい頃から音楽に触れていたので、ピアノは自発的に。バドミントンと英会話は母に勧められて始めました。

 バドミントンは、当時通っていたクラブのコーチが元世界チャンピオンで、どんどん強くなって5年生のときに県の代表になり全国大会にも出場したんですが、その初戦で完敗したんです。コートの真ん中で座り込んだまま号泣しました。「いやだいやだ」って。英会話でもスピーチの大会に自信満々に挑んだのに、緊張で全部飛んじゃって最初と最後の挨拶しかしゃべれなくて、ステージの演台にすがったまま号泣しました。

 どちらも、悔しい気持ちと悲しい気持ちとで、もうやめたい、もうやめようと思ったことを覚えています。そんなときに「もう少しやってみようか」「このまま終わるの悔しいよね」と声をかけてくれたのが、母でした。

 こう言うと、母がやらせたいことを私にさせていたように聞こえてしまうかもしれませんが、そんなことはなくて、まだ幼い子どもである私に対しても同じ目線で話してくれていました。選択、決断も私の意見を尊重してくれました。現在に至るまで、母とのこのような関係は変わらず続いていますが、自分が母親になってそれが簡単なことではないことに気づいて、感謝の思いを新たにしています。

 
白球を追い続けながら夢見た音楽の道

 中学でソフトボールを始めたのはたまたまでした。先輩部員が少なくて、すぐにレギュラーになれそうな、そんな理由です。少数精鋭だったソフトボール部でしたが、中学の3年間で全国大会に出場するチームにまで成長しました。エースピッチャーとして臨んだ3年時の大会も県大会を勝ち上がって全国に行きましたが、最後の試合では力の差を痛感しながら負けたときは小学生の頃と同じように泣きました。さすがに泣き方は違いましたが(笑)。

 高校では県外の強豪校から特待生として声がかかりましたが、チームメイトとともに自宅の近くの公立高校でソフトボールを3年間続けて、中学時代と同様に全国大会に出場することができました。

 6年間、毎日のように白球を追い続ける生活でしたが、一方で、幼い頃から憧れていた音楽の道への想いは消えていませんでした。高校受験前の三者面談で、「音楽の専門学校に行きたい」と言って自分で取り寄せたパンフレットを何冊も出し、先生と親を驚かせたこともあります。オーディション関連の情報はずっと追いかけていて、高校3年のときに初めて応募した、あるオーディションが歌手デビューのきっかけとなりました。まだ部活動を続けている頃で、前日も国体予選の試合に出ているような中に上京して参加、そのときのことは今でもよく覚えています。

 まわりの参加者はみんな可愛らしく、ボイストレーニングに日々取り組んでいるような人ばかりで、自分のように真っ黒に日焼けしているような人はひとりもいなくて、「なんて場違いなところに来ちゃったんだ…」と。ある意味、吹っ切れるような違いのおかげもあって、「自分なりにやろう」と思えたのかもしれませんね。まさかではありましたが合格することができ、歌手としての道が開けました。

「マウンドの経験」と「集中力とタイミング」

 歌手デビューのレッスンのために上京することになりました。母からの条件は「大学に合格して、きちんと卒業すること」。部活動中心の学生生活から、音楽一本の道に進む中で、将来のために社会を知ってほしいという気持ちがあったのかなと思います。無事に合格して大学生となりながら、レッスンの日々を送りました。

 1999年のデビュー曲「涙のチカラ」はスウェーデンで著名な制作陣の中でレコーディング。今考えると、一新人に対して考えられないことです。2枚目の「Squall」は代表曲となる大切な曲です。「Squall」のヒットでテレビや大きなイベントなど、数年前までは想像もできない大きな舞台で自分の声を披露することになりました。

 もともとあがり症だった私にとって、これらの場面で助けてくれたのは経験と言葉でした。ソフトボール部時代の経験。自分の前には対戦する相手がいて、後ろには守備をしてくれる味方、仲間がいる。ステージで観客の前に立ったとき、まさにマウンドに立っているときの感覚が蘇ってきました。後ろにはサポートしてくれるメンバーたちがいて、監督のように見守ってくれる制作陣がいる。そう思うと思い切って歌うことができました。

 もうひとつ、助けてくれたのは母の「集中力とタイミング」という言葉です。これは、子どもの頃からのおまじないのようなもので、私が緊張するような場面でいつも母がかけてくれた言葉でした。集中しよう集中しようとしても、それはいつまでも続くものではなく、焦りを生んでしまうこともあるから、本当に大事な瞬間に集中しようという意味です。本番前はできるだけリラックスをして、曲が始まった瞬間にスイッチを入れる。そんな感覚で舞台に立っていました。経験と言葉、この2つが私を支えてくれたことは間違いありません。

これからのこと、叶えたい夢

 2006年に結婚し、翌々年に男の子を授かりました。その子も今年高校生となりました。子育てが終わったわけではないですが、無事に育ってくれた感謝とある種の達成感があります。

 息子と接するときに考えていたのは、「自分の母のように」ということでした。自主性に任せ、その一方で必要な場面では道を示す。どこまでできているかわかりませんが、伸び伸びと育ってくれています。私と同じく夫も音楽を仕事としていますが、息子はいまのところ興味はあまりないようです。それもそれでいいなと思っています。

 私自身は、子育てが一段落したこともあって、これまで以上に積極的に活動していきたいと思っています。地元である秋田に貢献したい気持ちも強くなってきました。まだ全くの夢の段階ですが、若い世代が自分たちを表現し続けることができる場所を作れたら…といったことも考えています。何だっていいと思います、やり切ったと思えるまであきらめずに続けてほしいですね。自分の息子を含む子どもたちにそう伝えたいですし、私もその思いを持ち続けたいと思います。

松本英子 Eiko Matsumoto

1979年6⽉16⽇ 秋⽥県出⾝。1999年ダグラス・カー⽒プロデュースによりスウェーデンでレコーディングした「涙のチカラ」で歌⼿デビュー。透明感溢れる歌声は『ペパーミントボイス』と評され、福山雅治氏プロデュースの「Squall」はフジテレビ系月9ドラマの挿入歌として話題となり40万枚のヒットを記録。その後、ラジオDJ(レギュラー12番組を担当)、舞台、CM出演、ナレーションなど幅広い分野で活動を続け、2015 年より福山雅治コンサートツアーにてコーラス参加、Linked Horizon の歌姫として全国及び海外ツアー36本を完走。近年では日本を代表するアレンジャー井上鑑氏や武部聡志氏とのLive共演も果たし、ボーカリストとしてさらに注目を集めている。
松本英子 オフィシャルサイト
https://www.eikomatsumoto.com

 

冊子「スクールダイヤモンド2023年」より