言葉の未来
音声で、文字で、絵で伝える言語

小学校では2020年度から外国語と情報(プログラミング教育)の授業が始まった。小学校の言語教育環境はどんな動きをしているのか、中等教育へ引き継がれる言語教育の3教科、国語、英語、プログラミング教育における、基礎の部分と変化する部分を考える。
モノリンガルからバイリンガルへ

 音として発する「ことば」を使っていた日本に、中国大陸から朝鮮半島を経由して漢字が到来したのは仏教の伝来から数えてもおよそ1500年前。経典に学び、唐の時代の中国大陸に留学して、日本は語り残すことができる「言語」を獲得した。平安時代には「万葉仮名」で音声言語も編み出し、漢字とひらがなとカタカナを使い分けて今に至っている。

 読み書きに便利な言語と、島国という地理的・社会的条件によって、江戸時代は子どもに「読み書き算盤」を習わせる寺子屋が、農漁村にまで広がっていた。

 そんな知力のすそ野が広い日本は、反面、世界の国々で経済活動を展開している現在も「できるのは日本語のみ」というモノリンガル意識が強く、少なくとも中学校で学んでいるのに「英語は苦手」と敬遠しがちだ。

 小学校に外国語教育が導入されたのは2011年のこと。平成33年度学習指導要領で、小学校に「外国語活動」を導入し、5・6学年に年間35時数を必修とした。2020年度の改正によって、現在は3学年から始まっている。また、同年度からプログラミング教育も始まった。国語・外国語・コンピュータ言語という言語環境の変化だったことに、今になれば気づく。

 多くの小学校が外国語やプログラミングの教育を担当できる教師の不足に悩まされたが、私立小学校は、開校以来、英語、仏語などの外国語教育を行ってきた学校が多く、人材確保も有利だった。外国語を通して世界の様々な国の存在を知り、文化・歴史を学ぶことが主たる目的だったが、近年は、低年齢から視聴覚学習をする効果が認められていることと、中等教育以上の進路として外国の学校を視野に入れて、語学習得を図る傾向が強い。

 プログラミング教育は、当初は系列に大学を持つ小学校以外は、やはり指導者の確保や環境づくりが進まなかったが、現在はコンピュータソフトやインターネットを利用する学習が普及している。

 モノリンガルでは世界の変化に対応できない現実があり、バイリンガルのほうが人の認知機能は高いという研究発表もあるなかで、「まず、国語を習得してから」という言語学習から、世界の言語を視野に入れるようになった。

あらゆる学習に必要な言語

 人は、ものやことから知り、感じたことを、言葉によって自分自身が認識し、人に伝える。言葉によって認識を共有できるし、言葉によって未知のことを考える。

 学習指導要領は『言葉の働き(機能)』について、「言葉には、事物の内容を表す働きや、経験したことを伝える働きがあることに気付くこと」「言葉には、考えたことや思ったことを表す働きがあることに気付くこと」の2点を小学校の国語科学習の指針としている。「気付く」ことを奨めていることに、幼少期の国語学習の重要性が認められる。

 改めて、小学校に定められた教育課程を、文部科学省の学習指導要領を参考に一覧すると次のようになる。

 国語・算数(1~6学年)、理科・社会(3~6学年)、生活(1・2学年)。音楽、図画工作、体育、道徳(1~6学年)、家庭科(5・6学年)、外国語活動(3・4学年)、外国語(5・6学年)。そのほかに、学級会や委員会活動、クラブ活動、学校行事などを指す「特別活動」、横断・総合的な探究学習に取り組む「総合的な学習の時間」、「プログラミング教育」があり、学校が各々の学習計画に基づき実施している。

 文科省は小学校の児童を対象に1人1台のコンピュータ端末(タブレット)が使用できる環境をつくり、「小学校プログラミング教育の手引」を発信している。コロナ禍に始まったこともあり、公立小学校の取り組みは、地域の企業やNPOの協力を得てもまだ十分ではない。私立小学校でも重点の置き方は学校によって異なる。

 全体として、コンピュータ操作を習得し、プログラミングを試みる学習と並行して、各教科の授業でタブレットの活用は進んでいる。教員は黒板、プロジェクターまたは電子黒板を使い、子どもたちはノートや鉛筆と併せてタブレットを使う。情報の整理・共有、意見の発表、家庭学習など実際に活用することで、コンピュータやインターネットに馴染んでいる。進んで手をあげることのなかった子どもがタブレットに書き込むことで、積極的に授業に参加する効果もあるという。

「絵」&「言葉」で考える

 文科省はプログラミング教育の目標を、プログラミング的思考を学ぶことと、コンピュータの仕組みが身近なものにどのように利用されているかを知ることの2点に置いている。

 プログラミング的思考を「自分が意図する一連の活動を実現するために、どのような動きの組合せが必要であり、一つひとつの動きに対応した記号を、どのように組み合わせたらいいのか、記号の組合せをどのように改善していけば、より意図した活動に近づくのか、といったことを論理的に考えていく力」と定義している。実際、子どもたちはコンピュータプログラミングを行う過程のなかで、論理的思考を身につけていく。

 中尾政之・東大大学院教授は著書『東大式 アイデアがいままでの10倍出せる思考法』(ダイヤモンド社)の中で、〈理系の人間と文系の人間の大きな違いは、「絵」で考えるか、「言葉」で考えるかではないかと私は思っている。〉と述べ、何か新しいひらめきが頭の中に芽生えたときは、絵を描いて考える、ビジュアライズ思考を奨めている。

 理系・文系による違いは不明だが、子どもは本来、絵と言葉で推理し学習している。小学校でも低学年は言葉が豊富ではない分、ビジュアルで考える場面は多い。日本語も英語も使い、教科横断型の探究もしている。

AIは人間の知能とはちがう

「計算機」開発の長い歴史のなかで、1940年にコンピュータ(computer)という画期的な製品が生まれた。その膨大な情報処理能力から新しい研究が始まり、AI(Artificial Intelligence)という言葉が初めて使われたのは1956年だという。AI(人工知能)に、人と同じ、否それ以上の「知能」を求める研究は今も発展途上にある。

 そういえば、知能という日本語を久しく耳にしなかったのではないだろうか。

 広辞苑には「知能」は、〈①知識と才能。 ②知性の程度。 ③環境に適応し、新しい問題状況に対処する知的機能・能力〉と記されている。新潮国語辞典には〈(一)知識と才能。(二)生物体が未知の事態・環境に適応する能力。また、そのような新しい適応反応の形式を創造する能力。〉とある。

 行動する能力、それも状況を見てどうするか考えたうえでの行動が伴わないと「知能がある」とは言えない、ということだろう。

 コンピュータやAIの働きを、人が先に設定できているわけではない。逆に、コンピュータによって、人間の認知を扱う学際的分野である認知科学は前進したといわれている。

 コンピュータが人の言語を処理することを自然言語処理という。もちろん、日本語も言語の一つとして処理される。身近な実例は、翻訳や通訳、スマートフォンの仮想アシスタントなど、完全ではないものの、利用は定着している。翻訳ソフトや顔認証のように、コンピュータの言語や画像の処理は急速に精度をあげており、実利的なAI活用は今後も進化を続ける。日本語しか使えなくとも、世界で意思疎通ができる時代が近いことも十分考えられるが、人とAIとが対等にコミュニケーションするのか、答えは出ていない。

日本語を母語とする文化の未来

 言葉は変化する。現在は、インターネットとスマートフォンに合わせて、言葉が変化している。対面していながら、スマートフォンを介して文字でコミュニケーションをする光景も見られる。そこで使う文章は短く、単語は省略形になり、流行語のサイクルも短い。丁寧語は消え、言外に匂わせる曖昧さもない。

 一方で、短歌や俳句を詠むことは若い世代でも盛んだ。「てにをは」は日本語独自の助詞であり、一文字、二文字で文章の意味を変えてしまう。こうしたおもしろさを知ると、表現力が豊かになり、コミュニケーションにおいても人を傷つけない言い回しができるようになるだろうと期待が持てる。

 書道も、児童の書き初めを多くの小学校で実施しているし、中高生になると部活動で流派の伝統に則る作品や前衛的な作品を発表している。

 中国の古い経典の乱れのない墨文字から学んだ日本の文字は、崩すことで独特の美しい曲線を描き、書道という日本文化の一分野となった。また、手書きの文字は個性の表出であり、現在も正確で美しい文字を書くことは素養の一つであることに変わりはない。

 文学や演劇においてはバイリンガル化が進んでいる。字幕や音声翻訳の機能の高度化が進むばかりでなく、日本でも外国語で読んだり観たりする機会が増えている。

 競技かるたや将棋のような、日本語がわからないとプレイが難しいものはどうなるのだろう。AIを開発するうえで将棋との勝負が有効だったとしても、AIと藤井聡太九段の対局に、ファンは楽しさを見いだせるだろうか。

 AIが個人生活でも正確に活用できる時代を迎えたとき、日本語は絶対的コミュニケーションツールではなくなるかもしれないが、日本語を母語とする人にとっては抱く感情や思考の土台は日本語にある。日本社会が継承してきた日本語を正しく美しく使い続けていく重要性は大きい。

冊子「スクールダイヤモンド2023年」より