「本物」を知ることで、向上心は芽生える
―――――――― サクソフォン奏者 上野耕平氏

上野耕平氏。26歳の若さで、国内外で実力を高く評価されるクラシック音楽のサクソフォン(サックス)奏者だ。
10代の時から国内のタイトルを総なめにし、東京藝術大学器楽科に在学中の2014年に、権威ある「アドルフ・サックス国際コンクール」で第2位を受賞して、世界から注目された。吹奏楽への情熱も厚く《ぱんだウインドオーケストラ》コンサートマスターを務める。
音楽家の家系に生まれたわけではない上野氏は、どのようにサックスと出会い、プロを志したのか。その原点となった小学生時代をひもとくことで、好きなことで一流になるヒントを探る。

吹奏楽って楽しい

「常磐線の線路が田んぼの真ん中を一本『ツーッ』と伸びているんです。その田んぼ沿いにある団地の中で、最も線路側の家に住んでいました。母子手帳に母が記したところによると、初めてしゃべった言葉は、『カンカン』だったようです」

上野耕平〈うえのこうへい〉
茨城県東海村出身。8歳から吹奏楽部でサクソフォンを始め、東京藝術大学器楽科を卒業。第28回日本管打楽器コンクールサクソフォン部門において、史上最年少で第1位、また2014年第6回アドルフ・サックス国際コンクールにおいて第2位を受賞。学生時代にCDデビューを果たす。常に新たなプログラムに挑戦し、サクソフォンの可能性を最大限に伝えている。現在、演奏活動のみならずメディアにも多く出演している。第28回出光音楽賞受賞。The Rev Saxophone Quartet、ぱんだウインドオーケストラコンサートマスター。

 

 茨城県の水戸市に生まれた上野さんは、とにかく電車が好きな子どもだった。鉄道好きは今も変わらない。

 サックスと出会ったのは、上野家が県東部の東海村へ引っ越した小学2年生の春だった。少し緊張しながら臨んだ新しい学校での始業式でのこと。楽器を持った子どもたちが舞台上に並んで、何やら始まるらしいと見つめていると、複数の楽器が一斉に鳴り響いた。その瞬間、心に突き刺さるような衝撃を覚える。

「単純にビビっときた。直感で、僕もこれをやりたいと思った。そういう感じを持った経験はその後の人生でもありません」

 隣にいた同級生に尋ねて、「スイソウガク」というものだと知った。帰宅するとすぐ母に話し、入部したいと意思を伝えた。100人近い部員がいて、吹奏楽コンクールにも出ている吹奏楽部だった。2年生の2学期から入部し、毎日、放課後はサックスの練習をする日々になった。

 子ども時代の上野さんは、毎日、どうやってふざけるかを考えているような少年だったので、「目立つし、かっこいい」ということでトランペットがやりたい楽器の本命で、サックスは第二希望だったのだが、顧問の先生は、何も言わずに『あなたはアルトサックスね』と、決めてくれたという。吹奏楽部のサックスは3人だったという。後年、「行動や性格を見て、向いていると思ったからよ、よかったでしょ」とおっしゃったそうだ。

「初めはここを押したらこっちが動くといったメカ的なおもしろさに惹かれてあれこれ触っていたのですが、すぐに音が好きになりました。吹奏楽部で様々な楽器に合わせて演奏するのも楽しかった。3年生の時には、自分のサックスを買ってもらい、中1くらいまでそれを使いました」

 一方で、鉄道、クルマ、テレビゲーム、プラモデルと関心も趣味も多岐にわたっていた。野球の少年団に入り、将来は野球選手になりたいと思ったこともあった。しかし、吹奏楽部と野球の両立は時間的にも体力的にも難しく、どちらかを選択しなくてはならなくなった。そこでは迷わず吹奏楽を選んだ。ランドセルを背に、右にソプラノサックス、左にアルトサックスを背負って通学していた。

本物のクラシックとの衝撃の出会い

 転機が訪れたのは、4年生の時。その日、上野氏は両親とともに、東海村にあるコンサートホールに足を運んでいた。日本のサクソフォン奏者の第一人者で、後に師事することとなる須川展也氏が東海村でリサイタルを開いたのだ。そこで、「その音を浴びて、僕の人生はがらりと変わった」という。

「衝撃的な出会いでした。ふだん、学校や家で聴いていたスピーカーから流れる音とは違う、本物を聴きました。指の動きからも目が離せなかった」

 今なお鮮烈な思い出のようだ。

「あんなふうに吹けるのか、と思った、それが超一流の演奏だったわけです。あんな演奏者になりたいと思い、向上心が芽生えました」

 電車の運転士になる夢は姿を消し、一人の演奏家のイメージが自分の将来像になった瞬間だった。

 小学生時代の印象的な演奏会をもう一つ上げてもらった。6年生の時に、両親に行きたいと頼んでチケットを取ってもらった、水戸市の水戸芸術館のコンサート。水戸室内管弦楽団は、当時、小澤征爾氏を音楽監督に迎えていた、高水準のオーケストラ。

「ぶったまげました。オーケストラの音とホルンのソリストとして出演していたラデク・バボラークのホルンのソロ演奏。こんな音が世の中にあるのか、と」

 プロのサックス奏者になろうと決めたのはこのころからだ。吹奏楽が好きで、サックスを吹くことが楽しかった少年から、クラシック音楽の演奏家になる方向が見えてきた。

手加減のない本物が子どもを夢中にする

 上野さんは、音楽に限らずどんな芸術分野でも、小学生で「本物」を知ることの重要性を説く。

「音楽なら、一流の生演奏を聴くことは、練習することと同等に大事だと思います。その時に、周りのおとなが勝手に手加減しないことも重要です。僕の場合、最初に聴いた生演奏が本格的なクラシックのリサイタル。しかも自分が演奏している楽器でした。この衝撃的な体験を小学生の時にできたことはとても幸運で、これがサックス奏者としてプロを目ざすことにつながりました」

 本物だからと、興味もないのにコンサートに行けばいいというものでもない。音楽だけでなく様々な本物に触れるなかで、「ビビッ」と来るものが見つかるのかもしれない。

 上野さんが吹奏楽部に入ったころに、お父さんがグレンミラーオーケストラのジャズのCDを買ってきてくれたことがあったという。

「今はそれが素晴らしい演奏だとわかるし、いいと感じるのですが、その時はまったく興味が湧かなかった。生で体感したクラシックにはあんなに反応したのに」と上野さん自身が言うように、出会いがどこにあるのかはわからない。

 上野さんがずっと好きなサックスを続けられた背景には、両親の見守る姿勢があった。

「両親から何かをやれと強要されたことは一度もありません。野球にハマって、吹奏楽と野球の二本立てで明け暮れていた日々も、興味の向くままにやらせて、自分が両立はできないと気づいて選択するのを待ってくれました。中学生になると、サックスで音楽界では注目されるようになったのですが、学校はおもしろくなくて、腐っていた時期もありました。藝大に進む時も、自分で選んだことをやって行けばよい、と言ってくれて。一貫して、決断を僕に委ねてくれたのはありがたかったですね。感謝しています」

冊子「スクールダイヤモンド2019年新春号」より